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II サムエル記

著者:II サムエル記にはその著者が誰なのかは書かれていませんが、I サムエル記で死んだ事が記録されている、預言者サムエルが著者でない事は確かです。よって預言者ナタンか、ガドが著者ではないかと言われています。

執筆年代:もともとI サムエル記とII サムエル記はひとつの書物でしたが、70人訳の翻訳者達が2つに分けたので、今もこの書物はI とII とに分けられているのです。I サムエル記に記されている出来事は紀元前1100年から1000年までの約百年の歴史で、II サムエル記はその後40年の出来事を記しているので、書かれたのが紀元前960年の後となります。

執筆の目的:II サムエル記はダビデ王の統治の歴史を記録した書物で、ダビデ契約を歴史的に紹介しています。

重要な箇所:「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(II サムエル7:16)

「王は顔をおおい、大声で、『わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ。』と叫んでいた。」 (II サムエル19:4)

「 彼はこう歌った。『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。』」(II サムエル22:2-4)

要約:II サムエル記は、ダビデの成功(1-10章)と、ダビデの問題(11-20章)と、2つに分ける事ができ、書簡の最後の21-24章には様々なダビデの統治の様子が記録されています。

II サムエル記はダビデがサウルとサウルの息子達の死を知らせる所から始まり、ダビデは喪に服します。その後ダビデはユダで王座に就き、生き残っていたサウルの息子イシュボシェテがイスラエルで王座に就きます(2章)。その後の内戦が起こりますがイシュボシェテは殺害され、イスラエルの民はダビデにイスラエルも治めるようにと頼みます(4-5章)。

ダビデは国の首都をヘブロンからエルサレムに移し、契約の箱もやがてエルサレムに移します(5-6章)。ダビデの、エルサレムに神の神殿を建てるという計画は神に引き止められますが、ダビデは以下の約束を与えられます: 1)ダビデの後を継ぐ息子が与えられる事; 2)その息子が神殿を建てる事; 3)永遠にダビデの血筋が王座に座る事; 4)神がダビデの家からあわれみを除かれる事は決してない事です(II サムエル7:4-16)。

ダビデは周囲の国々との戦で多くの勝利を収めました。またダビデは、足が悪いヨナタンの息子のメフィボシェテを王宮に迎え入れ、ヨナタンの家族をいたわりました(8-10章)。

その後ダビデは大きな失敗を犯します。ダビデはバテシェバという女性に情欲を燃やして姦淫の罪を犯し、その後バテシェバの夫の殺害命令を下してしまいます(11章)。預言者ナタンに罪を指摘されたダビデは悔い改め、神はダビデをあわれみ、赦しますが、罪の結果、多くの困難をダビデとダビデの家が経験する事も語ります。

預言の通り困難はやってきました。ダビデの長男のアムノンがその異母の妹のタマルを強姦してしまい、結果タマルの兄アブシャロムがアムノンを怒りのあまり殺してしまいます。その後アブシャロムは父の怒りを避けてエルサレムを去りますが、後にクーデターを起こし、ダビデの家臣達もアブシャロムに組したので(15-16章)ダビデはエルサレムを追い出されてしまい、しばらくの間アブシャロムは王となりますが、ダビデの意思に反してアブシャロムは殺害されて王座から引きずりおろされ、ダビデは息子の死を悲しみます。

その後のダビデの統治は落ち着きを取り戻すことはなく、イスラエルとユダは分裂しそうになり、ダビデはその他にも反乱を押さえつける必要がありました(20章)。

II サムエル記の最後には3年の飢饉(21章)、ダビデの詩篇(22章)、ダビデに仕えた勇士達(23章)、そしてダビデの人口調査の罪とさばきの疫病が記録されています(24章)。

キリストの予示: II サムエル記にあるキリストの予示は特に2箇所で見る事が出来ます。1つ目はダビデ契約にあります。II サムエル7:16には「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」と書いてあり、ルカ1:3-33でマリヤに受胎告知をした天使によって繰り返されます:「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」キリストこそがダビデ契約を実現された、ダビデの家系で生まれた、永遠に世界を治める神の御子なのです。

2つ目の予示はダビデが人生の終わりに歌った詩篇にあります(II サムエル22:2-51)。ダビデは彼の岩、やぐらであり、助け主であり避け所である救い主について歌っています。イエスは岩であり(I コリント10:4; I ペテロ2:7-9)、イスラエルを救う方であり(ローマ11:25-27)、「前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが」のがれた避け所(ヘブル6:18)で、私達の唯一の救い主なのです(ルカ2:11; II テモテ10:12)。

適用: 人は誰でも失敗します。心から神に従って歩もうと奮闘し、神に大いに祝されたダビデでさえも誘惑を受けて失敗したのです。ダビデのバテシェバとの罪は私達一人ひとりが心と目と思いを守るための警告なのです。私達が自らの信仰の成長を見たり、自分の力で誘惑に打ち勝った事を高ぶったりする事が大きな失敗の第一歩なのです(I コリント10:12)。

神は恵みに溢れているので、私達が本当に悔い改めるならば、どんなに汚い罪をも許して下さいます。しかし、罪によってもたらされた傷は癒されても傷跡は残ってしまうのが現実です。罪には自然に結果がついて来るので、罪を許された後も、ダビデは自分の蒔いた種の刈り取りをし続けました。不倫の関係から生まれた子供はダビデから取り去られ(II サムエル12:14-24)、ダビデは天の御父との愛の関係に生まれた亀裂に苦しみました(詩篇32篇と51篇)。罪を避ける事は後から許しを請う事の数倍も良い物だとわかります。

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